銃の話その2。

アメリカといえば、毎月のようにどこかで銃乱射事件があるのに銃規制が全然進まない話が定番ですが、日本人からするとほんと謎。なんで銃規制に反対しようと思うのかがわからない。

理解しようにもまず、銃規制に反対する人の意見を聞く機会が全くないんだよね。

自分の周りの米国人はみんな銃規制に賛成だし、ついでに言えばアメリカの医療は金がかかりすぎだと思ってるし、同性婚は支持するし、トランプ大統領なんてありえないと口をそろえて言う。この国のどこかに同じぐらいの数で真逆の意見の人々がいるはずなんだけど、一体どこにいけば行けばそんな人に会えるのか。地域による断絶なのか、階級による断絶なのか。

やつらの考えはおかしい、と言うのは簡単だけど、発展的な議論をするにはまず相手が何を思っているのか、どう感じているのか、を理解できないと先に進みようがない。(※1)

よく言われる、銃のメーカーが議会にお金をばらまいているので…という理由はきっと正しいんだろうけど、それは副次的な気もするんだよね。いくら政治に長けていても、感情的な部分で支持する人達がいなければ長続きしないような。

いろいろ考えた挙句、「銃」を「空手」に置き換えてみる、というのを思いついた。



カラテが、不良とヤクザの専売特許みたいになったパラレルワールドの日本。カラテを武器とした強盗恐喝事件が後を絶たず、カラテといえばギャング、ギャングといえばカラテと言われるようになって久しい。ギャングの中ではカラテが必須のノウハウになり、より殺傷能力の高い秘儀として磨き上げられていく一方、一般人はよりカラテから距離を置くようになる。
やがて、カラテは犯罪を助長する危険な技術であるから法で規制すべきだという声が上がり始める。他国からも、日本におけるカラテ犯罪率の飛び抜けた多さが槍玉にあげられるようになる。

そこであなたはなんと言うだろうか。

「いやいやいや、悪いのは空手ではない。空手を悪い目的に使う人間がいるのが問題なのだ。」
「法で規制したってギャングメンバーがそんな法律守るはずもないだろう。むしろ善良な市民の正当防衛の機会を奪うだけだ。」
「唯一の正しい対処方法は、空手の技術を広く一般に公開し、誰にでもアクセシブルにすることだ。」
「カラテは日本の文化的財産でもあるのだから、法で規制すべきではない」



これ、こっちで銃規制反対の人が銃について言ってることとだいたい同じじゃないかな。

一部の心ない者達の冒涜行為のせいで、自分達の文化が悪の根源みたいに扱われ、法的にも抹殺されようとしている。そういう見方をすれば、彼らの気持ちもわからなくはない。

むしろそうでないとしたら、もう、どう理解すればいいのか皆目見当がつかない。



銃を空手に置き換えることが例として適切なのかどうかはわからない。大きな違いのひとつは殺傷能力の差だろう。

空手の心得があれば、空手による攻撃を防御することもできる。(たぶん。) が、銃を持っていても銃弾を避けられるわけではない。
銃には一撃必殺・先手必勝という性質がある(※2)。そういう武器は、死を恐れないテロリストや狂人に対しては抑止力としての効果がないし、手が滑ったとか勘違いでしたとか過剰防衛でしたといった場合に取り返しがつかない。

まあ、別に空手をダシに銃社会の弁護をしたいわけではないので、カラテロジックに穴があるならあるで構わないのだ。要は、彼らサイドの気持ちになってみたいだけなので。

もし、これが本当に民族的アイデンティティと殺傷能力の差異の問題なのなら、そこを起点に落とし所が見つかりそうな気がするんだよな。
例えば実弾の流通だけ厳しく規制して、一方で、ゴム弾の販売とかスポーツとしての銃については積極的に推進するとか。体育の授業でサバゲーを必修にするとか。銃のメーカーだってそっちの方が儲かりそうじゃん?


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(※1) 突然ワンポイント英会話: こういうふうに「人の気持ちになって考える」ことを put oneself in other people's shoes と言いますね。確かに、履きこなれた靴って、本人の型みたいな感覚あるよね。

(※2) よく映画で「二人が銃を互いの頭に突きつけ合い、睨み合ってフリーズする」というシーンがあるんだけど、あれがなんで成り立つのかよくわからない。さっさと撃った方の勝ちじゃないの?