蒟蒻畑にでかい注意書きが義務づけられ、ついにキレた生産者が「食べたら死にます」と袋にでかでかと印刷した...というネタ画像が話題になってた。
だけどこれ、結構多くの人が本気にしたらしくて、騒ぎが大きくなったあげくついに作者が謝罪をするに至ったらしい。

(↓本物はこっち)

こんなの本気にする方がどうかと思うのだが、それでも「世間をお騒がせ」すると謝罪をしないといけないのが世の習わしらしい。いかにも日本らしくてくっだらねぇ。誰かが謝罪させたのか、作者が勝手に謝罪しちゃったのかは不明だけど、確かになんとなく騒ぎの責任を原作者に求めるような空気はあったようだ。リツイートの中には、騙された自分の情弱っぷりを棚に上げて「悪質なコラでした!」と追記しているものまで見うけられた。
この、つい「悪質な」と表現しちゃう心理から垣間見える、これらの人達の情報に対する基本姿勢には、
という二つの問題点がある。どういうふうに問題なのかを順を追って説明したい。
■
まず、一般的に、情報の発信者から受信者までの間には以下のように三種類の異なる役割の担い手がいる。
さてここで、「情報に対する責任」(発信された情報によってもたらされた結果に対する責任) を誰が負うべきか、という話なのだが :
■ (1) キュレーションという行為によって与えられた(もしくは失われた) 新しいコンテクストに対する責任は、原作者にはない。
キュレーションとは、元の情報に別のコンテクストを与え、新しい意味付けや解釈をつける行為のことだ。それは元の情報を創り出すのと同じぐらい、あるいはそれよりもっと創造性の高い表現活動ともいえる。
(美術品本体の価値よりも、それにコンテクストを与える行為の方がずっとアートの本質なんだという議論はデュシャンの泉の話を持ち出すまでもないよね ?)
あなたが元の作者のツイートを引用したりリツイートした時点で、あなた自身が二次発信者(キュレーター) になっていることを忘れてはいけない。その時点で、元の作者が普段どんなふざけた人物なのかとか、どういう前後関係の中でどの程度の範囲を意図して発信した情報なのかといったコンテクストは失われている。かわりに、あなたのフォロワー達は、「あなたが特に選り好んで人に聞かせたかった話」という全く新しいコンテクストでその情報を受け取るのだ。
だからそれ以降、その新しいコンテクストによってもたらされるすべての出来事 (例えば世間がお騒がせされるなど) の責任は、元の作者にはない。もし責任が生じるとすれば、それは原作者ではなくあなたの方にある。
■ (2) 情報は、発信した側ではなく受け取った側が責任をもつ。(それが嫌なら表現の自由と、知る権利とを捨てろ。)
上で「もし責任が生じるとすれば」と書いたが、では、二次発信された情報の責任は本当に二次発信者がとらなければいけないのだろうか?
そもそも、なぜ「情報の発信者が責任をとる」という発想があるかというと、これは昔、マスメディアの時代には「情報を発信する」ことが一部の「選ばれし者」にだけ与えられた特権だったからだ。だから「選ばれし者」にはその力に見合った道徳や責任が求められた。ノブレス・オブ・リージュみたいなもんですね。
だけど今はもうそんな時代ではない。あらゆる人に情報発信の機会がある。それは表現の自由でもあるけど、自由には必ずリスクが伴う。情報の海は玉石混合どころか時折毒だって混じっている。
今は、情報を受信する側にフィルタリングの責任があるのだ。
空に向かってぼうっと口を開けていれば神様が美味しいものを口に入れてくれる、そういう呑気な世界はもう終わったのだ。かわりに、マツタケから毒キノコまで何でも自由に採り放題だけど、自分の目で全部見分けなければいけない厳しい世界になったのだ。
だから、基本的には、騙されたら騙された側に責任がある。
世間がお騒がせされちゃったのなら、騒いだ世間に問題があるのであって騒がさせた方には責任はないし、求めるべきではない。
■
もちろん、「空に向かってぼうっと口を開けていれば神様が美味しいものを口に入れてくれる」っていう世界を選ぶ、という選択肢はアリだと思う。(パターナリズムっていうの ?)
ただそれは、「自分に情報のフィルタリングする能力なんてないし、やりたくもないです!」「誰か偉い人が、見るべき情報と見るべきでない情報を責任をもって分類してくれて、その意味まで手取り足取り教えてくれないとやです!」っていう敗北宣言をすることにほかならない。
そもそもそういう人はネットなんて見ないでテレビの前に座っていた方がいいだろう。テレビなら、どこで笑ったらいいかも分からないお馬鹿さんのために、御丁寧にオチのところで笑い声や字幕まで入れてくれるからね。だから、その通りに笑って暮らしていれば安全に、幸せに生きていける。
都知事は鬼の首を取ったかのように「ほら、だから俺が健全な青少年の為になる本とそうじゃない本を選んでやるから、お前らは黙って俺の選んだ本読んでりゃいいんだ」って言うだろうし、記者クラブは「そんな馬鹿なお前らが記者会見みてもなんも分からんだろ?邪魔だからさ、俺ら選ばれし者がちゃんと噛み砕いた読み物に書き上げるまでテレビの前で正座してまってろよ」って言うだろう。
まあ実際、多くの人はそっちの方が向いているとは思う。
だけどこれ、結構多くの人が本気にしたらしくて、騒ぎが大きくなったあげくついに作者が謝罪をするに至ったらしい。

(↓本物はこっち)

こんなの本気にする方がどうかと思うのだが、それでも「世間をお騒がせ」すると謝罪をしないといけないのが世の習わしらしい。いかにも日本らしくてくっだらねぇ。誰かが謝罪させたのか、作者が勝手に謝罪しちゃったのかは不明だけど、確かになんとなく騒ぎの責任を原作者に求めるような空気はあったようだ。リツイートの中には、騙された自分の情弱っぷりを棚に上げて「悪質なコラでした!」と追記しているものまで見うけられた。
この、つい「悪質な」と表現しちゃう心理から垣間見える、これらの人達の情報に対する基本姿勢には、
- ネタがネタであると見抜けない。つまり、情報に対する解釈・価値付けを自力でできない。(あるいはその習慣がない。)
- 勝手に騙されて大騒ぎしたあげく、その大騒ぎの責任を原作者に押し付ける。つまり、情報の受信者ではなく発信者に (その情報から派生するすべての出来事の) 責任があると考えている。
という二つの問題点がある。どういうふうに問題なのかを順を追って説明したい。
■
まず、一般的に、情報の発信者から受信者までの間には以下のように三種類の異なる役割の担い手がいる。
一次情報の発信者 (ここではコラ作者)
↓
それに価値・解釈を与える二次発信者 (最近はキュレーターと呼ぶのが分かりやすいらしいのでそう呼ぶことにする。ここではリツイートした人達)
↓
情報の受け手 (ここでは、それを真に受けて大騒ぎしちゃった人達)
さてここで、「情報に対する責任」(発信された情報によってもたらされた結果に対する責任) を誰が負うべきか、という話なのだが :
■ (1) キュレーションという行為によって与えられた(もしくは失われた) 新しいコンテクストに対する責任は、原作者にはない。
キュレーションとは、元の情報に別のコンテクストを与え、新しい意味付けや解釈をつける行為のことだ。それは元の情報を創り出すのと同じぐらい、あるいはそれよりもっと創造性の高い表現活動ともいえる。
(美術品本体の価値よりも、それにコンテクストを与える行為の方がずっとアートの本質なんだという議論はデュシャンの泉の話を持ち出すまでもないよね ?)
あなたが元の作者のツイートを引用したりリツイートした時点で、あなた自身が二次発信者(キュレーター) になっていることを忘れてはいけない。その時点で、元の作者が普段どんなふざけた人物なのかとか、どういう前後関係の中でどの程度の範囲を意図して発信した情報なのかといったコンテクストは失われている。かわりに、あなたのフォロワー達は、「あなたが特に選り好んで人に聞かせたかった話」という全く新しいコンテクストでその情報を受け取るのだ。
だからそれ以降、その新しいコンテクストによってもたらされるすべての出来事 (例えば世間がお騒がせされるなど) の責任は、元の作者にはない。もし責任が生じるとすれば、それは原作者ではなくあなたの方にある。
■ (2) 情報は、発信した側ではなく受け取った側が責任をもつ。(それが嫌なら表現の自由と、知る権利とを捨てろ。)
上で「もし責任が生じるとすれば」と書いたが、では、二次発信された情報の責任は本当に二次発信者がとらなければいけないのだろうか?
そもそも、なぜ「情報の発信者が責任をとる」という発想があるかというと、これは昔、マスメディアの時代には「情報を発信する」ことが一部の「選ばれし者」にだけ与えられた特権だったからだ。だから「選ばれし者」にはその力に見合った道徳や責任が求められた。ノブレス・オブ・リージュみたいなもんですね。
だけど今はもうそんな時代ではない。あらゆる人に情報発信の機会がある。それは表現の自由でもあるけど、自由には必ずリスクが伴う。情報の海は玉石混合どころか時折毒だって混じっている。
今は、情報を受信する側にフィルタリングの責任があるのだ。
空に向かってぼうっと口を開けていれば神様が美味しいものを口に入れてくれる、そういう呑気な世界はもう終わったのだ。かわりに、マツタケから毒キノコまで何でも自由に採り放題だけど、自分の目で全部見分けなければいけない厳しい世界になったのだ。
だから、基本的には、騙されたら騙された側に責任がある。
世間がお騒がせされちゃったのなら、騒いだ世間に問題があるのであって騒がさせた方には責任はないし、求めるべきではない。
■
もちろん、「空に向かってぼうっと口を開けていれば神様が美味しいものを口に入れてくれる」っていう世界を選ぶ、という選択肢はアリだと思う。(パターナリズムっていうの ?)
ただそれは、「自分に情報のフィルタリングする能力なんてないし、やりたくもないです!」「誰か偉い人が、見るべき情報と見るべきでない情報を責任をもって分類してくれて、その意味まで手取り足取り教えてくれないとやです!」っていう敗北宣言をすることにほかならない。
そもそもそういう人はネットなんて見ないでテレビの前に座っていた方がいいだろう。テレビなら、どこで笑ったらいいかも分からないお馬鹿さんのために、御丁寧にオチのところで笑い声や字幕まで入れてくれるからね。だから、その通りに笑って暮らしていれば安全に、幸せに生きていける。
都知事は鬼の首を取ったかのように「ほら、だから俺が健全な青少年の為になる本とそうじゃない本を選んでやるから、お前らは黙って俺の選んだ本読んでりゃいいんだ」って言うだろうし、記者クラブは「そんな馬鹿なお前らが記者会見みてもなんも分からんだろ?邪魔だからさ、俺ら選ばれし者がちゃんと噛み砕いた読み物に書き上げるまでテレビの前で正座してまってろよ」って言うだろう。
まあ実際、多くの人はそっちの方が向いているとは思う。